活動報告

2018 / 04 / 01  07:30

ひろしさんの郷土愛

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メッセージをいただきました

 

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 櫻田宏さんのねぷた好きは筋金入りである。それがそのまま、弘前への郷土愛につながっている。

 弘前ねぷたは「喧嘩ねぷた」である。「夏の華」とも呼ばれた。確かに乱闘事件もあったが、喧嘩ねぷたは単なる乱暴狼藉とは違う。そこには作法があり、先頭に立つ「喧嘩師」という人物がいた。

「徹底的にやるということはなかった。逃げる者や倒れた者には手をつけない。サッと引く足も早かった。喧嘩の根底に〈引く〉という発想があったことが、ねぷた喧嘩をギリギリのところで〈祭り〉にしてきた決定的な要因だろう」

笹原茂朱氏は著書「ねぷた祭り」でそう推察している。卓見である。

さらに喧嘩師への世間的評価が高かったことも指摘している。

「一方の旗頭(喧嘩師)としてこれこれの実績があるとなれば、選挙に立候補しても、あれだばいがべぇ、かなりねぷたのときやってる」となるのだと、古老の話を紹介している。

 だから祭りは、血気盛んな壮士を束ねる、統率者としての喧嘩師の腕の見せ所であり、市民もその手際を楽しみにしていたと思える。大勢が見物し、さらに取り囲んで囃(はや)し立てもしたということは、「夏の華」に胸を熱くする城下町・弘前らしさを物語っている。

 宏さんの祖父、櫻田清(きよ)芽(め)もまたそのような喧嘩師であった。そして清芽は、先の古老の話し通り「あれだばいがべぇ」と、市議、県議を経て、第二十代弘前市長として戦後まもない弘前市を統率したのである。

 

さて、孫・櫻田宏さんのことである。

 平成三年、「りんご台風」が津軽を襲った。甚大な被害であった。出稼ぎを余儀なくされた農家は少なくない。ねぷた祭りの常連であった「小栗山ねぷた愛好会」も、台風の痛手により翌年の祭りに参加できなかった。

 そのとき、市役所の職員福利厚生会が立ち上がった。高さは最高七、五m、幅が最高七、六m、巨大組ねぷた『本能寺の変』を立ち上げたのである。上下の伸縮に加えて左右の開閉も自在という新技法。聳(そび)え、胸を張るその姿は大迫力で、台風被害から立ち上がろうとする一人一人を力づける勇姿であった。

 職員福利厚生会は、「台風被害でねぷたを出せなかった団体や小栗山の分まで頑張る!」と、年明け早々アイディアを出し合い仕事で疲れた体に鞭打って自力で作ってきたのだった。一本一本の針金を曲げ一枚一枚の紙を張り一つ一つの色付けをする細かな作業をいくつもいくつも積み上げて、かつて誰も見たことのないものを創り上げたのである。

友情と不屈の「夏の華」であった。

その中心にいたのが、若き市職員・櫻田宏さんであった。

『くらし』『いのち』『ひと』の三本柱は、 祖父・櫻田清芽から六十余年を経て噛みしめる、宏さんの弘前人への愛情表現である。明日の弘前のために、明日の子どもたちのために、いくつものことを積み上げて、必ずや愛情を形にしてくれるに違いない。

 

けっぱれ! ひろし!

 

(記) 山本 和之

 

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山本様、ありがとうございました!